2022年8月16日火曜日

コラム:我が家の家訓



はじめに

病気としてというよりも、社会的にコロナ禍が緩和しつつあるように思います。両親が新型コロナに罹患回復済みということもあり、安心して(?)2022年のお盆は帰省しました。

3年ぶりに会う私の両親は元気ではあるものの、やはり歳はとったなあと思いました。コロナ以前は概ね半年毎に会う機会があったわけでそういう感覚を覚えることはなかったのですが、3年も空けると時間の経過がくっきり出て、そう思わせるのだと思います。その流れで、自分が子供の頃、親に何を教わったかを反芻させられました。

といっても、様々なことがもはや断片のエピソードとしてくらいしか記憶にないのですが、父に「借金はするな。これは家訓だ」と言われていたことと、倹約家の母の背中を見て育ったことが、大人になってからの私のライフスタイルや価値観に強い影響を与えていることを再確認しました。私は両親のおかげで、幸せな生活を送れているのだと思っています。

もちろん、借金というリスクを取って事業などで大成功し、豪奢な生活をしている人から見ると私の人生は必ずしも成功に見えない気もします。「自分の幸せは自分の心が決める」ということでしょう。

前置きが長くなりましたが、最近、私自身が私の子供になにを伝えられるか考えています。


検討過程

「人様に迷惑をかけるな」にしようと思いましたが、一般常識・社会通念・法律規範などの範疇にあって、学校生活など成長過程で通常会得するようなものは、あえて言う必要がないかなと思いました。もちろん、もしそこで脱落しそうな気配があれば、そのレベルに立ち戻る必要はありますが、いまのところは大丈夫そうです。

それと、私の持論というより後悔として、視力と歯は悪くなると取り返しがつかない。身長と運動経験は後で得たいと思ってもほぼ無理。勉強は難度はとても高くなるが歳をとってもなんとかなる。

というものがあって、いまも折に触れ子供に言って聞かせているものの、大人になって思い出せても後の祭りに近い事項だとおもいます。それもひっくるめて「健康第一」というのはその通りですが、言わずもがなの当たりまえな気がします。

したがって、例えば「借金」のように一般常識・社会通念・法律的には選択は自由であって正解もないものであるが、自身の経験と見分の中で、自身の経験のなかでの一番の成功体験と、自身の経験に加え、見分も加味したなかでのハイリスク事項を抽出して伝えるのがいいだろうと思い、以下の3点を子供に伝えようと思います。


家訓

  1. 借金せず、倹約し、パッシブ投資をせよ
  2. 信用取引は手掛けるな
  3. 宗教に10円を超えて深入りするな



1.借金せず、倹約し、パッシブ投資をせよ


私の両親の時代には、借金せず、倹約したうえで、真面目に働いていれば十分に幸せを享受できたと思います。それで、私も借金せず、倹約したうえで、真面目に働いていたつもりでしたが、どうも幸せになれそうな気がしませんでした。
それで投資ということをはじめて、投資信託、個別株、海外株などを大体手掛けたうえでの体験上の結論としてパッシブ投資がもっとも効率がいいです。歴史を翻えれば超長期的に経済は基本右肩上がりで拡大し、かつその恩恵を被るのはそこで使われるものではなく、資本を投じた側だと思います。


2.信用取引を手掛けるな


「買いは家まで、売りは命まで」という格言の通りであって、あえて私自身経験しようともおもいません。いままでもこれからも手掛けることはないです。
借金せず、倹約し、真面目に働くことを前提に、その先で市場には自分の身の丈の範囲で取り組んで、その成長に応じて取組金額を大きくするべきだと思います。それを超えてすべてを失うリスクをあえて取る必要はないと思っています。
資産の一部について反対の値動きに備えたいという目的なら、ブルベアETFで十分だと思います。


3.宗教に10円を超えて深入りするな


私が日本に生を受けて40年余り、様々な出来事がありましたが、O真理教、S学会にK科学、T協会等々、新興宗教についてはいい話をほとんど聞いたことがありません。
仏教、キリスト教、イスラム教といった歴史のある宗教も、紐解けば文明に光陰両面をもたらしてきました。それぞれに信じるところはそれぞれであるが、「信者」というを漢字をくっつけると「儲かる」となる、この点はすべての宗教の共通項のように思います。
それで、借金せず、倹約し、真面目に働いて、パッシブ投資ができている人の人生というのは、その時点ですでにかなり安定している気がします。
その人が更なる人生の拠り所を必要とする場合、打ち込める趣味、スポーツやグルメ、家庭や職場、地域社会など、いくらでも充実した選択肢がある現代社会において、あえてそれらの拠り所が乏しかった時の知恵である「宗教」という選択をする必要性はないと思います。

したがって、友達に初詣に誘われたら、それは宗教色がほとんど薄れた文化娯楽としてのものであるから断って興醒めさせることのほどもないが、賽銭を超えて深入りしないほうがいいように思います。クリスマスも同様で、消費喚起の経済活動としては、おおいに参加すればよいと考えます。
その点において、我が両親がほとんど無神論者だったことは、幸せなことだと思います。

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